こんにちは、人生は50代からがもっと楽しい!不動産投資家やんつです。
社会人としてお金のことを勉強したいあなたと、アクティブシニアになりたいあなたへ・・
親父の夜逃げシリーズ(5)です。
ここまでのお話はこちら
親父の夜逃げシリーズ(1)
親父の夜逃げシリーズ(2)
親父の夜逃げシリーズ(3)
親父の夜逃げシリーズ(4)
さて、金融機関3行の1.8億円のローン、XX興産の1500万円の約束手形、それぞれ返済猶予交渉がまとまりました。
これでいよいよ返済活動に着手!
とその前に、父がどうして2億円もの借金を作ったのか振り返ってみます。
■ 事業の失敗
親父は6代目となる農家の跡継ぎ。
資産は700㎡程度の田んぼが45枚ほど。約3.0Ha(3万㎡)です。
東京ドームが4.7haですから、一回り小さいですね。
近隣ではそれなりの規模でしたが、農業だけでは発展が見込めないと1970年代に不動産業を始めました。
不動産業といっても山本家の資産は農地ばかりなので、融資を受けて土地の仕入れから始めたようです。
農業のかたわら山本商事㈱を設立し、デベロッパーにチャレンジ。
宅地造成から手掛け、それなりに上手くいった時もあったようです。
ところが1979年の第二次オイルショックで市場が混乱。
建築資材が高騰し、収益が上げにくくなりました。
デベロッパー系は上手くいくときはいいんですが、景気が悪くなると歯止めが効きません。
バブル崩壊時にも同じことが起きています。
そんな時は、じっと景気の回復を待ち、タイミングをみることが重要です。
地道な管理会社としてストック中心に舵を切るべき。
父の同業でも転換して、うまく乗り切った人も沢山います。
父は6代目ですが、実は7人兄弟の6番目で4男坊。
上3人の男子が病気で死亡し、跡継ぎとなりました。
祖父にしてみればやっと残った跡継ぎの男子。末っ子の5男坊が生まれるまではたった一人の男の子でした。
大事に大事に(甘やかして?)育てたようです。
会社勤めの経験がある訳でもなく、どこかで不動産の勉強をした訳でもありません。
事業をしていくには経験不足、知識不足だったと思います。
不動産業であれば、減価償却と事業収益の関係や、キャッシュフローとの違いなどを知っておく必要があります。
融資を受ければ、キャップレートや残債利回りの知識も必要です。
ROIなどの指標も重要。
当時の父親からは、そんな単語を聞いた記憶はありません。
投資計画にしてもどこまで計算していたのか・・・?
回収計画を綿密に立てていた様子も覚えがありません。
全てがどんぶりでした。
1983年頃は金利がとても高い時代。その高い金利を上回るリターンが必要です。
融資を使って攻めるのか、現金主義で安全にいくのか、使い分けが大事。
残念ながら破綻するのも無理からぬ経営レベルでした。
色んな人に儲け話を持ち込まれ、お金を注ぎ込んでは損していたよう。
実家の納屋に業務用テーブルゲームが一時、山と積まれていたといいます。
喫茶店に置いてある100円玉を入れながらゲームを楽しむタイプのものです。
インベーダーゲームの大流行に続き、ちょうどゼビウスなどが流行っていました。
流行が終わったころに買い込んで大失敗したようです。
1台100万円はしたとか・・・、それが十数台・・・
母は見るたびに血圧が上がったと言います。
結局は売れないまま、廃棄処分したそうです。
これがXX興産の手形だったのかもしれません。
■ 武勇伝・・・
ここで書くのもはばかれますが、女性絡みの武勇伝もたくさんありました。
後に母から、さんざん愚痴を聞かされました。
付き合った女に一戸建ての家を買ってやったら、関係者に取られた。
(美人局的な話かもしれません・・・)
女性を横に乗せて飲酒運転のあげく川に落ち、クレーンで引き上げられた。
などなど・・・
借金から逃げた時に転がり込んだ仲居さんとは、みんな別々の女性です。
金沢の繁華街でそうとう散財してたんでしょう。
まぁ、これ以上は身内の恥なので、止めますが。
これでは事業の失敗なのか、女の失敗なのかわかりません。
こうして積もり積もった借金が2億円というわけです。
お世辞にも経営スキルがあったとは思えない親父ですが、どうして2億円もの借金ができたのか?
その話は次回に。 (続く)
今回も最後までお読み頂きありがとうございました。
個人的な話ですが、読んでもらえると嬉しいです。