「よくやった!」税務署のおじさんの褒め言葉に、思わずこみ上げてきたもの。
こんにちは!50代からあわててお金の勉強中の、不動産投資家やんつです。
社会人としてお金のことを勉強したいあなたと、アクティブシニアになりたいあなたへ・・
個人的な話で恐縮ですが・・・
わたしのプロフィールで、よく聞かれるのが親父の残した借金の返済話。
そろそろ忘れないうちに、書き溜めようと思います。
(といっても、なんせ30年以上前のこと。だいぶ忘れてますww)
ということで、親父の夜逃げシリーズ(1)です。
■「よくやった! 偉い!」
分厚く膨れ上がったA4バインダー5冊の資料を差し出すと、ごま塩頭の税務署員が大きな声で褒めてくれました。
当時、わたしはIT企業に勤める29歳のごく普通のサラリーマン。
その税務署のおじさんとは、約1年前に税務相談に来て以来、2度目の面談でした。
時は1986年3月、親父の借金を完済し、最後の事務処理として「代位弁済」の証明書類を確定申告として税務署に提出した時のことです。
「代位弁済」とは、父親が社長をしているものの別の法人格である山本商事の借金を、保証人である父が個人資産を売却して返済したときに受けられる、譲渡所得の特例。
(詳しくは、後日)
つまり、他人の借金のために不動産を売ったんだから税金はまけてよね~という申告。
長期譲渡所得の20%(住民税含む)が税金ですからバカになりません。
1億円の土地売却なら2000万円が税金で取られてしまいます。
ごま塩頭のやさしく笑うおじさんも、約1年前にわたしにアドバイスしたものの、ここまできちんと揃えてくるとは思わなかったようです・・・
足掛け3年に渡る借金返済物語の終了でした。
「やっと、終った・・・」 無我夢中の3年間でした。
肩の荷がおりてほっとした、というのが正直なところ。
今、考えてもよくやったなと思います。
それでは時計の針を戻して、苦難の物語の始まりから。
■「父ちゃんが逃げた・・・」と、叔父は切り出した。
それは1983年5月のゴールデンウィークのことでした。
石川県野々市市の実家の大広間で親戚(6家)が揃った中、親族の中では若輩ながらしっかり者で発言力もあったH叔父はこう切り出しました。
わたしは1956年生まれ26歳のサラリーマン。
男2人兄弟の次男です。
当時、京都の大学を出て、東京に本社のあるIT会社の大阪支店に勤務していました。
家は親父で6代目となる農家。
初代は江戸末期の文化・文政頃であることが過去帳で分かっています。
まぁ先祖代々の田舎の農家ということ。
700㎡程度の田んぼが45枚ほど。約3.0ヘクタール(3万㎡)が耕作地。
近隣の中ではまずまずの規模でした。
農家の傍ら、親父は不動産業も営んでおり、これが今回の話の発端です。
生家が農家のため5月の連休には田植え、8月の夏休み後半は稲刈りを手伝うのが、小さい時からの習慣でした。
(北陸は早稲農家のため少し時期は早めです)
その年の5月の連休前に、お袋から何時帰省するのかの確認の電話がありました。
これまでにそんな電話があったことはありません。
いつも帰省の1~2日前に、「帰る」とこちらから電話するだけ。
なんだかいやな予感・・・
(といっても親父が困窮してるとかも全く知りませんでした)
おそるおそる帰ったところ、冒頭の親族会議となった分けです。
沈痛な面持ちでみんな並んでいます。お袋も暗い顔でうつむいたままです。
「お前の父ちゃんが逃げた・・・」
「借金が幾らあるかもよう分からん。借金取りも来て大変なことになっとる。」
びっくり仰天でした。
H叔父の説明によると、借金が返せず親父が夜逃げしたとのこと。
相手先も金融機関以外は分からず、金額も不明だとか。
(その後、約2億円と判明)
田畑、家屋敷が担保に入っているのは当然ながら、困っているのは親族がそれぞれ連帯保証人として名を連ねていること。
このままでは田畑を取られて路頭に迷い、しかも親族にまで累が及ぶ。
誰かがやらなければならない・・・
「なんとか踏みとどまって、田畑をうまく処分しながら借金を返すしかないがや。時間も工数も掛かるけど、親戚にはそんなに時間の割けるやつはおらん。」
「お前しかおらんがや。」
「悪いけど、頼む!」
みんなの真剣な眼差しに、実感はないものの大変な事態であることだけは分かります。
叔父、伯母の顔には、こんな事を頼んで申し訳ないという思いと、とはいえ他に方法はないという諦めの表情とが交差しています。
その後、H叔父は続けます。
「すまん。1年は無職を覚悟してくれ・・・」
えーーーーっ! それマジかよ!??
なんと返事をしたのか覚えていません。頭の中は真っ白でした。
ローンも組んだことの無いサラリーマンに借金返済と言われても、何をしていいのか全くイメージは湧きません。
その晩は寝付けませんでした。
「こりゃ、まいった・・・どうしたらいいんだ・・・」
長男がいるのに、何故次男のわたしがという方もいらっしゃるでしょうが、兄は昔から芸術家タイプ。
次男(わたし)が数字や経済に強い、という役割分担が出来てました。
なので「お前しかおらんがや。」と言われた時に「そうだろうな・・・」とぼんやり考えたのを覚えています。
この件で、兄を恨みに思ったことは全くありません。
ところで兄夫婦はこの話に絡んでいないと、ずーっと思っていたのですが最近聞いたところでは、
この親族会議の時に裏方のお茶出しなどをしていたとのこと。
兄なりに陰でやきもきしてたようです。
どうして「いやだ。俺には出来ない」と言って逃げなかったのか?
よく聞かれるんですが・・・
親族が連帯保証人になっているという事実を前にして、不思議と逃げるという考えは湧きませんでした。
小さい時から可愛がってもらった叔父さん、伯母さんには迷惑はかけられんな、と。
実家だけの話なら。関係ないよと放棄したかもしれません。
ただ、NOと言える雰囲気でも無かったのも事実。
「困った。参った。」とは思いましたが、仕方がないと腹を括りました。
大阪に戻って勤務先に退職を申し出ることにしました。
コンピューター販売の仕事はとても好きでしたが・・・ (続く)
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
ちょっと個人的な話ですが、お読みいただけると嬉しいです。